150年の歩み
旭発電所(大正2年)
大正初期独力で鉄道を敷設(谷地駅)
大蔵橋起工式(昭和5年)
当社は明治元年、初代升川倉松が山形県河北町に於いて土木建築請負業升川組として創業、谷地水道工事・白岩新道工事(白岩洞門)など公共事業を主として施工しました。
明治32年、その子二代目倉松が代表者となり勝作と兄弟で更に業績を拡張し、谷地道海橋や鳥海橋等の多くの橋を施工したことから「橋の升川」の異名をとりました。また、山形県立師範学校新築工事をはじめ多くの建築工事も施工しました。
谷地橋(明治36年)
明治40年、三代目升川勝作が代表者を継承し、谷地町上水道工事や県会議事堂新築工事などを施工するとともに、個人出資で最上川畔赤石の高原に広大なる水田を開拓し揚水場や自家発電所の建設など郷土の発展に尽力、特に大正初期に於いて山形県谷地と神町間に独力で鉄道を敷設し、当時の交通機関として県民に多大の便宜を供しました。
戦後の混乱期には駐留軍の施設建設のため山形県下の代表建設業者として建築及び土木工事に政府の指示による責任を全う致しました。
工事中の臥龍橋(大正4年)
昭和23年、従来の一切の業務を継承し、資本金100万円にて升川建設株式会社に組織を変更、着々と時代に即応した体制を整え、翌24年には建設大臣登録を取得、ここに総合建設業として大きく飛躍するに至りました。
昭和30年、三代目升川勝作が会長に、四代目升川剛男が社長に就任すると、技術陣の強化、工事用建設機械の整備・拡充など次々と陣容の整備に努力を続け、また、若手技術者の育成にも力を注ぎました。
昭和63年、升川剛男が会長に、五代目升川修が社長に就任し、新たなる躍進を期して、翌平成元年には新社章を制定し、創業以来一世紀以上に及ぶ伝統と経験を基礎に新しい環境に対応しながら東北、関東地域一円に常に対応できる組織体制を整えました。
令和4年、升川修が会長に、六代目升川大和が社長に就任し、更に技術の向上をはかり、環境の変化に対応し、活力ある集団として日々研鑚を積んでおります。
左沢小学校上棟式(昭和3年)